2026国立と2019ポーランド。日本代表の菅原由勢が“借り”を返すW杯
遣欧のフライベリューフリッヒ#26
「欧州へ行ってきます」。Jリーグの番記者としてキャリアをスタートさせ、日本代表を追いかけて世界を転戦してきた林遼平記者(※林陵平さんとは別人)はカタールW杯を経て一念発起。「百聞は一見にしかず」とドイツへの移住を志した。この連載ではそんな林記者の現地からの情報満載でお届けする。
今回取り上げるのは、日本代表の菅原由勢。タフなシーズンを送った末にW杯の最終登録メンバー入りを掴み取った男の思い出は、9年前のポーランドまでさかのぼる。借りを返す機会をずっと切望してきた男の挑戦が新たに始まろうとしている。
国立にて、自慢の右足を
右足を振り抜いた瞬間、菅原由勢の頭にはゴールまでの絵が描かれていた。
5月31日、国立競技場。北中米W杯を前にした最後の国際親善試合となったアイスランド戦の87分、右サイドでボールを受けた菅原は、左足から右足に持ち替え、相手守備陣の間を通すような鋭いクロスをゴール前に送り込んだ。
このボールに小川航基がヘディングで合わせ、ゴールネットを揺らす。日本代表の決勝点。その起点となったのは、菅原最大の武器と言っていい、右足からの高精度クロスだった。
そして、この1本のクロスに込められたモノの重さを理解するには、約7年前まで時計の針を戻す必要がある。
ポーランドのあの日から
2019年、ポーランド。同地で開催されたU-20W杯に、18歳の菅原は主力選手として臨んでいた。ルブリンで行われた決勝トーナメント1回戦、相手は韓国。ゲームが終盤を迎える局面で、菅原のバックパスが相手に拾われた。その一瞬のミスが決勝点につながり、優勝を夢見ていたチームは早々の敗退を余儀なくされた。
ピッチに立つ選手ならば誰もが経験しうるプレーである。だが、世界舞台での終盤の失点。18歳が背負うには、あまりに重い記憶だった。
それ以降、菅原に大きな国際舞台の経験はない。東京五輪でもカタールW杯でも、メンバー入りの可能性はありながら、最後の最後で名前を呼んでもらえず、何度も涙を飲んできた。
簡単に切り替えることはできない。それでも、カタールW杯後に菅原に思いを聞くと、すでに目線は次の大会へと向いていた。
「W杯の落選は最悪の瞬間でもあり最高の瞬間でした」
言葉の意味を噛み砕くのに、少し時間がかかった。「僕はメンバーから落ちた時、これを最高の結果だと言えるようなキャリアにしていこうと思ったんです」。その真意を、菅原はこう続けた。
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Profile
林 遼平
1987年生まれ、埼玉県出身。2012年のロンドン五輪を現地で観戦したことで、よりスポーツの奥深さにハマることに。帰国後、サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、東京ヴェルディ担当を歴任。現在はフリーランスとして『Number Web』や『GOAL』などに寄稿している。
