INTERVIEW

田島翔。ラスベガスからMLS目指す 34歳・流浪のフットボーラー

2017.12.19

人生を変えた選択

#2 田島翔(ラスベガスシティFC/アメリカ5部)

ピッチの中でも、そして外でも。一つの選択がサッカー人生を大きく変える。勇気、苦悩、後悔……決断の裏に隠された様々な想い。海の向こう側へと果敢に挑んだ選手たちに今だからこそ語れる、ターニングポイントとなった「あの時」を振り返ってもらう。

第2回は、プロアマ含め国外5カ国を渡り歩き、しかもこれまでに所属したクラブのほぼすべてに、自ら電話やメールで売り込みをかけて加入。フロンティア精神で文字通りキャリアを“切り開き”、現在はアメリカでMLS昇格を目指しプレーを続ける34歳のさすらいフットボーラー、田島翔選手に、決断の連続だったユニークな選手生活について語ってもらった。

始まりはピッチャー兼任

 僕が育ったのは田舎で、サッカーをやる環境が全然整っていなくてそもそもチームがありませんでした。なので、小学3年生の時に野球部に入ってピッチャーをやっていたんです。その後4年生の時にJリーグが創設されて、5年生の時にようやくサッカーチームができました。その時点で自分としてはもうサッカーだけをやりたかったんです。でも、自分たちの代が中心になっていて、ピッチャーをやっていたこともあってすぐに野球の方を辞めることができなくて。サッカーと野球を両方やるという条件でサッカーを始めさせてもらいました。

 中学生になってからはサッカーに専念するようになったんですが、高校を終えるまで県選抜とかには縁がなくて、大学から声がかかることもありませんでした。でも、自分の中になんと言うか、根拠のない自信があって、「プロになるにはどうしたらいいんだろう」というのをずっと考えていて。JFLのクラブに自分から連絡を取ったりもしたんですがダメでした。それで経歴を作る方法としてたどり着いたのが「逆輸入という形でJリーグを目指す」という道でした。

 サッカー雑誌でシンガポールへのサッカー留学について書いてあるのを見つけて、それで行くことにしたんです。今でこそアルビレックス新潟シンガポールがありますしシンガポールリーグに行く日本人選手も少なくないので、目のつけどころは悪くなかったと思うんです。でも、あらためて思い返すとステップアップのための環境としてはちょっと早かったかなという感じはしますね(笑)。

 プロチームに練習生として参加していたので、天然芝のスタジアムを使えたり設備の面では悪くありませんでした。でも北海道出身ということもあって熱帯の気候に参ってしまって。あとは外国人枠の問題に初めて直面したのがこの時でした。「(契約を勝ち取るには)地元の選手よりうまくても仕方ないからな」と最初から言われていたんですが、当時のチームにはブラジル人やナイジェリア人選手が所属したので、プロとしてまったく実績のない自分がその壁を破るのは難しかった。

 契約には至らず帰国することになって、最初(当時J2だった)コンサドーレに電話してみたんですが練習参加すらできなくて。どうしようかと考えて、Jリーグを目指しているクラブに声をかけてみることにしました。今はJリーグ入りを目標にしているクラブは少なくないですが、あの頃その可能性があるクラブというのはあまり多くなくて、ザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)とFC琉球くらいだったんです。それで、当時はまだ地域リーグ所属だったFC琉球に加入することになりました。ここでも最初は練習生からのスタートだったんですが、半年後に正式にプロ契約を結ぶことができました。ちょうど(与那城)ジョージさんが来た時ですね。

 初めてクラブに所属することができたんですけど、ただ当時の琉球は半分くらい元ヴェルディの選手だったのでかなりレベルが高くて。(プレーの)スピードが速くてついていくのに必死でしたし、プロ契約なのでいつ切られるのかわからないという精神面でのプレッシャーも相当あって、当時は毎日胃薬を飲んでいました(笑)。なので、自分を育ててくれたジョージさんには本当に感謝しています。

真っ黒に日焼けした肌でボールを追うFC琉球時代の田島選手

 そうやってなんとかやっていたんですが、試練が待っていました。プレシーズンの練習試合中に相手のタックルで大ケガをしてしまったんです。皮膚から足の骨が出てしまうほどの開放骨折で、骨がくっつくまでに10カ月くらい、プレーを再開するまで1年半を要する重傷でした。その間にジョージさんが契約満了になって、僕も契約満了で退団になりました。退団した時はまだリハビリ中だったので、1年間はどこにも所属せず浪人を余儀なくされて。その後ようやくプレーできるようになったんですが、JFLの舞台を経験したのでカテゴリーを下げることはしたくなかった。やっぱりJリーグでプレーしたいという想いがあったので、3カ月だけノルブリッツ北海道に所属した後、海外行きを決断して、クロアチアに渡りました。

海外挑戦の理由は「カズさん」

 クロアチアを選んだのは、カズさん(三浦知良選手)がプレーしたことがあったから。もともとカズさんに憧れてサッカーを始めたので。もう一つ、クロアチアが「東欧のブラジル」と言われていてテクニックが優れていて面白そうだからというのもありました。

 ただ、まだクロアチアと繋がりのある人は少ない時代です。なので最初は、自分でクロアチアの日本大使館に電話をして「サッカーと繋がりのある人を紹介してほしい」と頼んだんです。そうしたらクロアチアで働いている日本人の方を紹介してもらえて、さらにその方の友人にクロアチア人の新聞記者がいて「クラブを紹介できる」と言ってくれて。それで現地に行きました。今考えたらできないですよね、何があるかわからない怖さもありますし。

 クロアチアは……とにかく寒かったですね(苦笑)。みぞれみたいな雪が降るので芝は荒れていて地面がむき出し。プレーする環境という意味では悪かったのは確かです。プレー面に関して言うと、対戦する相手の体の大きさに圧倒されましたね。僕が所属したクラブは2部だったので、思っていた以上にフィジカル重視のサッカーで大変でした。ただ、僕がプレーしていると、観客が僕のことを「ミウラ!ミウラ!」って言うんです。それはやっぱりうれしかったですね。
クロアチアでは1年間プレーして、次に加入したのはスペインの5部のクラブでした。本当はもう少し上位カテゴリーに行きたかったんです。でも、当時の僕の状況でスペインの2部や3部に入るのは本当に難しくて。それで周囲の関係者に話を聞いたら「だいたい5部や6部からスタートして、そこからステップアップしていくんだよ」ってアドバイスされました。当時称賛されていたスペインでどうしてもプレーしてみたかったんです。

 そんなふうに考えていた時、当時やっていたブログにスペインのチームでトレーナーをやっているという日本人の方から連絡が届いたんです。それをきっかけに交流を持つようになり、じゃあテストを受けてみないかという話になってそれで加入に至りました。

 ただ、行く前は5部とかでも綺麗にパスを繋ぐサッカーをやるのかな、と想像していたんですが、5部くらいになるとやっぱりできないんですよね。なので(クロアチア時代と同じく)フィジカル中心で、戦える選手が好まれる感じでした。それでも向こうの選手は身体の使い方、相手への当たり方が巧くて勉強になりました。それから、自分の武器であるスピードやドリブルは通用したんです。なのでスペインでは契約延長して2年間プレーすることができました。

帰国を決意させたあの大災害

 スペインでは充実していたんですが、心の中には「やっぱりJリーグでプレーしたい」という想いもあって。「Jリーグはもう遅いのかな、このまま海外でプレーし続けるのかな」って葛藤していたスペイン2年目のシーズンに、東日本大震災が発生しました。

 僕の両親は函館で漁師をやっているんです。それで「日本でプレーしたい」という想いに一気に傾きました。その後ロアッソ(熊本)と繋がりがある人と出会うことができて、1カ月くらいの練習参加を経て加入することになりJリーグを経験することができました。

念願だったJクラブ、ロアッソ熊本時代の田島選手

 ロアッソは1年で退団することになるんですが、Jリーグまで到達して夢が叶ったことで「サッカーはもういいかな」という気持ちが芽生えたんです。それでフットサルへの転向を決意して、シュライカー大阪に加入しました。所属したのは半年間だったんですが、俊敏性や素早い判断が養われたり、あとは戦術的な部分も物凄く細かいので勉強にもなりました。

 ただ同時に、サッカーと比較してみるようになったりサッカーに生かせるなっていう感じで考えている自分がいることに気づいて。それでもう一度サッカーに戻ることを決めました。

フットサル経由、海外再挑戦

 シュライカーを離れたのがちょうどFCWCの時期で、来日していたオークランド・シティを見て面白いなと思ったのでメールでコンタクトを取りました。履歴書やプレー動画を送って、それを見たオーナーとGMに認められて加入することになったんです。けど、監督は僕を獲ったってことをまったく聞いていなかったみたいで。監督からすれば「なんで俺を通さないんだ」ってなりますよね。それで干されてしまって、まったくプレーすることなく退団を余儀なくされてしまいました。フットサルを経て再びサッカーに戻ってモチベーションも上がっていた時だったので、精神的にキツかったですね。

 このオークランドでの経験と自分の年齢的なことも考えて、一度は「(地元の)北海道からJリーグを目指すクラブに貢献しよう」という気持ちになって十勝フェアスカイFCに入りました。でも、3度も肉離れをしてしまってほとんどプレーできなかった。それでシーズン終了後にコーチ就任の打診を受けたんです。でも、ケガを理由に選手を辞めちゃうと悔いが残ると思ったので断りました。
じゃあ次はどこでプレーしようかとなった時に、ちょうどMLSが凄く盛り上がってきているという話を聞いて。それでまた自分でメールを使って売り込んで、練習参加を経て加入したのがリーグとしては4部に当たるマイアミ・ユナイテッドでした。

 マイアミにはちょうどその時、元ブラジル代表のFWアドリアーノがいて一緒にプレーしました。モチベーションと体力はあまりなかったですけど(苦笑)、でもシュートの強烈さは健在でしたね。

 同じマイアミに元イタリア代表の(パオロ・)マルディーニがオーナーでネスタが監督をしているマイアミFCというクラブがあるんですけど、僕が所属したマイアミ・ユナイテッドの方が独特の雰囲気があって、ファンの数も多かったんです。ファンがあまりリーグのカテゴリーを気にせず楽しんでいるのはアメリカらしいなと感じるところですね。

ラスベガスでは“選手兼マネージャー”

 マイアミで1年間プレーした後、ラスベガスへと移籍しました。この時はクラブに履歴書を送ったんですが、そうしたらオーナーが日本とも繋がりを作りたいと考えていたらしくて、それで僕の経歴を見て興味を持ってくれたんです。さらにその時、「ラスベガスでプレーするならスポンサーになるよ」と名乗りを上げてくれた企業があって、その企業を紹介したことも加入を後押ししてくれました。

田島選手の加入を受けてスポンサーとなった「ネバダ観光サービス」の関係者との1枚

 そういった経緯もあって、今オーナーとチームダイレクターとのミーティングに僕も加わっているんです。ちょうど11月にも新しく日本の企業をオーナーに紹介して、来シーズンからスポンサーになることが決まりました。肩書きとしてはあくまで選手なんですけど、「日本企業の誘致やサッカー教室開催の提案は積極的にしてほしい」と言われていて、クラブの運営面にも貢献できているのは充実感がありますね。

 それから、そのミーティングの中ではチームの強化に関する意見を出してもいます。さすがに「誰を獲得した方がいい」というところまでは踏み込みませんが、例えば、チームの守備がちょっと弱いなと感じた時に「DFの選手を補強した方がいい」と提案したりする感じですね。

 オーナーはメキシコ人で、ラスベガスで電機や照明関係の会社を経営しています。僕がまだマイアミに所属していた時、彼がロナウジーニョをラスベガスに呼んで、アドリアーノのいるマイアミと親善試合を行いました。その費用が日本円で1800万円くらいだったらしんですけど、すべて彼が出したらしいです(笑)。

右がメキシコ人オーナーのラファエル・モレノ氏

 さらに、クラブのアドバイザーとしてジーコを招へいしています。クラブに常駐しているわけではないのですが立ち上げの際にアドバイスをもらったり、ロナウジーニョを呼ぶ時に仲介してもらったりしているんです。

 補強の面でもオーナーの力は大きくて、今シーズンはメキシコ人選手が7人プレーしました。本田圭佑選手が所属しているパチューカからも2人引き抜いたんです。ラスベガスはメキシコ人が多い地域なのでメキシコリーグの試合をTVで生中継していて、チームメイトと本田選手のことはかなり話題になっていますよ。オーナーには、「今度はパチューカを呼びましょう」とお願いしています。実現するといいんですけどね。

 今、オーナーは中国人とブラジル人の投資家と提携の話をしていて、何年かラスベガスの下部リーグで足場を固めたら、一気にMLSへと参入するというプランを練っています。そのために今後数年の間に、メキシコの強豪チーバスからスタッフを引き抜いていくことも検討しているみたいです。

ラスベガスで見据える未来

シンガポールでの練習生から始まり地域リーグからの挑戦、大ケガがあって再び海外、念願のJリーグ、フットサルを経て再び海外に出てアメリカ――本当にいろいろなところでプレーしましたが、今のラスベガスではピッチの中でも外でもとても充実しています。

 今シーズンは選手としても結果を残すことができて、来季から新たに3年契約を結びました。このチームでMLSの舞台に立つまで頑張りたい、という想いは強いですね。

 それともう一つ、ラスベガスでは今年、悲劇的な銃撃事件がありました。カジノのイメージが強い街ですが、今年からNHLのチームが誕生して、さらにNFLのチームも移転してくることが決まってスポーツが盛り上がってくると言われているんです。そんな街で、サッカーも盛り上がっているんだ、ということを伝えたいと意気込んでやって来ました。なので、ああいった形で世界に報じられたというのは僕にとっては凄くショックなことでしたし、街全体を包んだ悲しい雰囲気を肌身で感じました。

 いろいろな国でプレーしてきましたけど、僕自身は今回のラスベガスを含め、これまでに身の危険を感じたことはありません。銃社会のアメリカですが僕は所持していませんし、所持している人に遭遇したこともありません。ですから、一度は沈んでしまった街をサッカーの力で活気づけたい、少しでも力になれればと思っています。

 その盛り上がりが遠く日本にまで伝わるよう、これからますます頑張っていきますので応援してもらえるとうれしいです。

■プロフィール
SHO TAJIMA
田島翔

(ラスベガスシティFC)
1983.4.7(34歳)168cm / 62kg MF JAPAN


Photos: Sho Tajima

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田島翔

Profile

久保 佑一郎

1986年生まれ。愛媛県出身。友人の勧めで手に取った週刊footballistaに魅せられ、2010年南アフリカW杯後にアルバイトとして編集部の門を叩く。エディタースクールやライター歴はなく、footballistaで一から編集のイロハを学んだ。現在はweb副編集長を担当。