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「僕が札幌を守る」宮澤裕樹の17年、極度の人見知りが赤黒の象徴になるまで

2024.06.07

【特集】ワンクラブマンの価値 #4
宮澤裕樹(北海道コンサドーレ札幌)

移籍ビジネスが加速している昨今のサッカー界で、クラブ一筋のキャリアを築く「ワンクラブマン」は希少な存在になっている。クラブの文化を体現するバンディエラ(旗頭)はロッカールームにとって大きな存在であることはもちろん、クラブとファン・サポーターを結びつける心の拠り所にもなる。あらためて彼らの価値について考えてみたい。

第4回は、北海道伊達市出身の34歳(6月28日で35歳)で、2008年から地元のクラブのためにJ1、J2の舞台で戦い続け、長年キャプテンも務めた背番号10の、ここでは書ききれないほどの思い出。

「サッカーは楽しくやれればそれでいい」…で行き着いたプロの世界

 「なかなか上手いなあ」。筆者はふと呟いた。

 2007年の春先だっただろうか。コンサドーレ札幌が室蘭大谷高校(現・北海道大谷室蘭高校)と練習試合を行った際に同校の背番号10、宮澤裕樹が見事な直接FKを決めた。その前年などにも彼のプレーを目にしたことはあったが、この時は最終学年。今後の進路が気になるタイミングだったこともあり、より宮澤のプレーにも目が向いたように記憶している。実際に当時のJ1上位クラブのスカウトの姿を同校の試合時に複数人、見かけたことがあったし、この年の高校3年生の注目株でもあった。北海道は選手権予選の開催が他府県よりも若干早かったこともあり、当時のJFA技術委員長だった小野剛氏もU-19アジア選手権に向けて直々に視察に訪れるなど、翌年からの進路をはじめ、その後のキャリアが注目される一人だった。同世代の代表チーム中心選手には宮澤の他、権田修一(清水エスパルス)、柿谷曜一朗(徳島ヴォルティス)らがいた。

 そこからいきなり時計の針を現在まで進めるが、この2024年シーズン、その宮澤は札幌のユニフォームを着てプレーをしている。特別何か間を埋めるべきキャリアチェンジはなく、上記の2007年末に札幌入りを決めると、翌年から17シーズンをひたすら札幌の選手として過ごしてきた。プロサッカーの世界ではものすごい頻度で移籍があり、近年の日本でも有望な選手はJリーグで活躍するよりも先に高卒、大卒でヨーロッパへと旅立つケースも出てきているほどに進路の多様化は目まぐるしい。その中で宮澤は一つのクラブのみでキャリアを重ねるワンクラブマンとして生き続けている。2024年は負傷から復帰して2試合目の第7節ガンバ大阪戦(1-0)、自らの得点で連敗を5で止める貴重な勝利へチームを導いた。ゲームの流れを読んで味方さらには試合展開までもコントロールし、そしてスコアさえも動かしたプレーぶりは圧倒的だった。さすがの活躍だ。

 少しだけ時計を戻す。昨年夏のとても暑い日のこと。ふと宮澤にあらためて、なぜプロ入り時に札幌を選んだのかを聞いてみた。クラブハウス内で扇風機の風を浴びながら、今さらの問いに背番号10は返した。

 「なぜ札幌だったのか? うーん……『なぜ』っていうほどのものでもないですよ。地元のチームだし、子供の頃から試合を観に行ってましたから。確かに高校時代、ありがたいことにいろんなチームから声をかけてもらいましたが、プロになるならば、やはりここでなりたいという気持ちもありましたし。あとは……知らない場所に行くのもあまり得意ではないですから。かなりの人見知りなので、なるべく知り合いの多いところで暮らしたいですよね(笑)」

 そうやって笑う宮澤だが、ならば札幌入りが即決だったのかというとそうでもなかった。

 「高校3年時に、進路希望を書いて提出する用紙に地元企業の名前を書いたんです。その会社にはサッカー部があって、ちょうど僕の母校から推薦枠もあったんです。社会人として働きながらサッカーができるのはいいな、と思って。でも、学校の先生たちからひどく怒られましたね(笑)。『お前、ふざけてるのか!』って。自分としてはまったくふざけているつもりはなかったんですけどね。サッカーを頑張るという部分は変わらないですし、それにもともと僕は『サッカーは楽しくやれればそれでいい』という考え方でしたから。世代別代表に継続して選ばれるようになってからも、そこはまったく変わっていなくて」……

Profile

斉藤 宏則

北海道札幌市在住。国内外問わず様々な場所でサッカーを注視するサッカーウォッチャー。Jリーグでは地元のコンサドーレ札幌を中心にスポーツ紙、一般紙、専門誌などに原稿を寄稿。