「2024年は期待を裏切りたい。いい意味でね」21年目の青山敏弘を突き動かす「支えてくれた人たち」への感謝
【特集】ワンクラブマンの価値 #2
青山敏弘(サンフレッチェ広島)後編
移籍ビジネスが加速している昨今のサッカー界で、クラブ一筋のキャリアを築く「ワンクラブマン」は希少な存在になっている。クラブの文化を体現するバンディエラ(旗頭)はロッカールームにとって大きな存在であることはもちろん、クラブとファン・サポーターを結びつける心の拠り所にもなる。あらためて彼らの価値について考えてみたい。
第2回は、前回に引き続き青山敏弘の後編。ミシャとの別れ、ブラジルW杯後など数々の転機でも「移籍を考えたことなんて、1度もない」という決断の背景、先人の想いを受け継ぐ覚悟を掘り下げてみたい。
代表との“二足の草鞋”の中で、繰り返されるケガ
だが、例えば井上尚哉がたびたび拳を傷めるように、強過ぎるプレーは選手の身体を痛めつける。青山は何度も何度も、ケガに襲われた。
2007年、北京五輪最終予選で出場権を獲得したサウジアラビア戦で青山は右足の指を骨折。広島にとって最も重要だった入れ替え戦に出場できなくなった。責任を痛感した青山は、契約交渉後の記者会見で号泣。「切り替えることなんて、できない」と語るのが精一杯だった。
その後も彼は何度もケガと直面する。2度にわたる半月板の手術。腰痛。2019年には右膝軟骨を故障し、引退の危機にまで追い込まれた。だが、負傷の度に強くなり、そして戻ってきてチームのために全力を尽くす。2005年の前十字靱帯断裂時、徹底的に肉体を改造して「もやしのよう」と言われた身体に鋼を入れたように、青山はどんな時も自分の現状から逃げず、闘い続けた。
「2010年から11年にかけて、青山のパフォーマンスは一時的に停滞した。あの頃の青山は、少し(現状に)満足していたように見えた。もっと欲を出してほしいって思っていたんですよ。ただ、ミシャ(ペトロヴィッチ)さんが退任して森保監督になった時、『自分がやらなきゃ』という強い気持ちになってくれた。それがステップアップの要因になったと思います。2014年からキャプテンになって、発言も違ってきた。自分で様々なことにチャレンジしようとしていることが、人間的な成長にもつながった」(足立前強化部長)
2012年、初優勝した時のオフ。青山は契約交渉に臨んだ。
当時は、海外移籍が特別なことではなくなった時代である。選手の中には、単年契約を結んでは契約切れを待って移籍する形を取るケースもあった。「青山もそういう形の移籍を選択するのでは」という憶測が飛んだ。彼ほどの実力者であれば、欲するクラブはどこにでもある。W杯のことを考えれば、海外に移籍しやすいオプションをつけることも考えられた。年齢は当時、26歳。決して若くはない。海外に行くにはラストチャンスだ。
これは少し後のことだが、ザッケローニ日本代表監督は、ブラジルW杯に彼を選出する前から青山に注目していたという。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督がブラジルW杯直前に語ってくれた証言を聞こう。
「ザッケローニ監督とは試合会場で会って挨拶して、そのたびに少し話もしていますが、彼はよく私にアオのことを聞いてきたんですよ。その話の内容から考えても、彼のアオに対する評価はかなり高い。私自身、アオは日本代表としてW杯出場に値すると確信している。それにふさわしい厳しい努力を彼は積み重ねてきた。彼に限っては、コネとか推しとかは関係ない。だからこそ私は、アオに対して帽子を取って、功績を称えたい。
日本は、アジリティと技術と連動性に長けている。そういうチームがフィジカルの強い相手と戦う場合、向こうの土俵に上がってはいけない。インテリジェンスを駆使し、頭を使ってプレーすることが求められる。だからこそ、アオのようにアイディアと知性のある選手が必要だろう」
「もっと長い契約って、できないんですか?」
代表=海外組という図式が、強くなっていた時代だ。だが広島としては、青山にはクラブの未来を託したい。だからこそ、最大限の評価を提示した。それが、3年契約。「彼に長く広島の中心として頑張ってほしいという意思表示。アオが長期契約を結んでくれれば、我々の将来的なチーム編成もやりやすくなる」と織田部長は考えた。
提示を受けて、青山はまず「嬉しいです。ありがとうございます」と口にした。そして、言葉を続けた。
「もっと長い契約って、できないんですか?」
織田部長は、驚きを隠せなかった。長期契約をクラブが提示しても「単年で勝負したい」と言われるようになった時代に、まさかの逆提示だった。
青山の希望に、強化責任者は即答する。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。