SPECIAL

日本人を阻む、世界という「高ければ高い壁」の正体

2019.01.15

『日本代表とMr.Children』リレーコラム第3回

日本代表とMr.Children』は、名波浩や中田英寿の90年代後半から始まり、長谷部誠や本田圭佑の時代まで続いた日本代表とミスチルとの密接な関係を解き明かしていくことで、「平成」という時代そのものを掘り上げていく一冊だ。

この連載では、本書を読んだ異なる立場のサッカー関係者4人にそれぞれのテーマで書評をお願いした。第3回はアルゼンチンの監督学校で学び、異色のnote『芸術としてのサッカー論』で注目を集める新世代のサッカー指導者の河内一馬氏が考える、海外サッカーと日本サッカーの間にそびえる「高ければ高い壁」の正体について。

 私は、『終わりなき旅』を聴くことができない。自分がなぜサッカーをやっているのか、続けたいのか辞めたいのか、好きなのか嫌いなのか、考えれば考えるほどわからなくなっていた(面倒臭い少年だった)中学生時代。当時のコーチが作ってくれた思い出DVDのエンディングには、Mr.Childrenの『終わりなき旅』が使われていて、この曲を聴くと、サッカーをするという行為に対して「複雑な感情」を抱いていた当時の記憶が蘇える。その記憶は自分にとって美しいものでもあり、また同時に苦しいものでもあって、まだ消化しきれていない今、この曲を聴くのにはそれなりの勇気が必要になる。だからもう何年も聴くことができていない。本書の中でもたびたび出てきた『終わりなき旅』は、私にとって「嫌いじゃないのに聴きたくない曲」として、唯一無二の立ち位置にいる。

14歳、ベルリンでの「本物」との出会い

 Mr.Childrenの名曲とともに幕を閉じた私の中学生時代、最も強烈に印象に残っているのは、14歳の時に行ったドイツ遠征である。2006年にW杯が開催される予定だったドイツの首都ベルリンで、姉妹都市のチームを集めた大会が行われ、日本(東京)の代表として参加した私たちは、開会式で「こんな奴らには絶対勝てん……」と思ったのとは裏腹に華々しく優勝を飾ったのだった。

 パリ代表との決勝戦、自分よりも遙かに大きな身体を持つフランス人と対峙したあのワクワク感、ホテルが一緒で仲良くなったナミビア代表の選手たちが「TOKYO」と叫ぶスタンド、何かといちゃもんをつけて喧嘩を売ってくるパリ代表のベンチ、普段は「審判に文句を言うなよ」と子供たちに口酸っぱく言っていた(くせに)コーチ陣が、審判や相手ベンチに必死に抗議をする姿(私は一緒に戦ってくれている気がして本当に最高な気分だった)、普段はそんなことしないくせに怪我をした演技をして時間を稼ごうとするチームメイト、試合終了の笛が鳴った時の言葉では表せない解放感と高揚感、試合中相手に感じていた「憎しみ」と言おうか「敵意」と言おうか、そのようなものが一気に消え去った試合後のハグや集合写真……。「ああ、これが本物のサッカーなんだ」と、本気でそう思った。あの時あの感覚を感じることができていなかったら、おそらくサッカーとは別の人生を歩んでいると思う。私が海外に本格的に目を向けるのはそれからしばらく経ってからだったが、思えばあの時から「外国への憧れ」は着々と育まれていったのだ。それも強烈な。

ドイツW杯前、国内外から少年少女を招いた大会が各地で開催された(写真はハンブルクでの様子)

ソーシャルメディアが加速する内と外の分離

“『外国に憧れなくなった世代』ということ。憧れなくなった、ないしは(憧れの対象を)日本のコンテンツで満たしていった世代。背景には、国内カルチャーの成熟があります”「ミスチル世代」とは何なのか?「批評」が機能しない社会の怖さより)

 そんなこともあって、『日本代表とMr.Children』の中でこう定義されているミスチル世代からは少し外れている私は「外国に憧れない」という感覚が、残念ながらよくわからない。音楽に関しても憧れるのはいつも外国のカルチャーで(こう言うと「カッコつけるなよ」なんて茶化されてしまうような風習も日本ならではなのかもしれない)、「外国のサッカー」に憧れを持つのは自然の流れだった。

 ただ、上に引用した現象は今もなお続いていて、むしろこれからが本番なのかもしれない。フットボリスタWEBのインタビューの中で宇野氏は「でも、それがこうして10年経って、20年経ってみると、僕らの世代からすれば明らかに『外を見なくなった』弊害の方が強く感じられるようになってきて」と語っている。サッカーの世界で言えば、ソーシャルメディアの普及によって、いつでも“画面”で「外国のサッカー」を観れるようになった私よりもさらに下の世代が、海の向こう側を特別なものではないと感じて(錯覚して)しまうのも無理はない。“実際の距離”(地理的・実力的)が縮まっているのなら大歓迎だが、どんなにソーシャルメディアが普及したところで日本と外国が陸で繋がることはなさそうだし、あまり良い流れではないと思わずにはいられない。日本人のバンドがやるJ-POPと、イギリス人のバンドがやるROCKを「別物」として楽しんでいるように、「外国のサッカーと日本のサッカーは別物」として捉え始めてしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。

 厄介なのは、音楽と違い、サッカーは世界と競い合う必要があり、「国内カルチャーの成熟」と「世界基準の競技能力向上」が切っても切れない関係にあるということだ。この2つは「両輪」であり、片方のタイヤだけで走れるほど愉快な世界ではない。日本サッカー(Jリーグ)が「単体」で存在することなど決してなく、常に世界との共存によってのみ存在し得るものだということを、日本人はつい忘れてしまいがちだ。先日FIFAクラブW杯(FCWC)で、鹿島アントラーズとスペインのレアル・マドリー、アルゼンチンのリーベルプレートが対戦した。結果は、ありとあらゆる場面で「差」が浮き彫りになったことは誰も否定することができない事実である。欧米や南米でプレーをする選手たちは、FCWCを遥かに上回るパフォーマンスを国内で繰り返しているということも忘れてはならない。彼らの実力は、さらに上のレベルにある。

2016年大会決勝では延長戦にもつれ込む激闘を演じたレアル・マドリーと“再会”した鹿島アントラーズだったが、1-3で完敗。「差」を思い知らされる結果となった

 「ガラパゴス化」という言葉がある。Wikipediaで調べてみると、以下のような説明が記載されていた。

 “ガラパゴス化とは日本で生まれたビジネス用語のひとつで、孤立した環境で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部から適応性と生存能力の高い種が導入されると最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である”

 Jリーグが世界との“共存ありき”で存在するものだとすると、日本で通用する「何か」が、世界では「通用しないもの」になってしまう状況は可能な限り避けなければならない。それがいわゆる「国内カルチャーの成熟」なのであれば、そんなものは一向に必要のないものに思える。サッカーとは、どのような「スタイル」でやろうが何だろうが、例外なく世界と同じ土俵の上に立たされ、ピッチの上では「勝ち負け」という一つの要素で線引きをされてしまう残酷な世界だ。選手だけではなく、監督も、指導者も、経営者も、サッカーを取り巻くすべての人々が例外ではなく、日本サッカー(Jリーグ)の「ガラパゴス化」をこれ以上深刻な状態にしてはならない……と思っているのは私だけであろうか。

「本物」がわからなくなる時代に求められる「審査員」

 さて、これから日本サッカーはどうなっていくのだろう。来年の話ではなく、10年後、20年後の話がしたい。日本は、「国内カルチャーの成熟」と「世界基準の競技能力向上」の両輪をうまく回していけるのだろうか。うまく回すだけでなく、徐々にスピードも上げて走らなければならない。そのために、極めて重要な役割を担っているのが「ファン(サポーター)」である。サッカーでお金をもらっている人々が作り出す「サッカー」というものを「見る側」の人々だ。もちろん「見る側」の人々がどうなろうが何をしようが、責任はサッカーでお金をもらっている人々にあることは間違いないのだが。

 先日、お笑いのM-1グランプリが開催された。その中で私が「やっと来たか」と思ったことがある。「審査員への不満」が爆発したことだ。以前から「審査員への不満」は少なからずあっただろうと思うが、さらなるソーシャルメディアの進化や、某お笑い芸人が特定の人を批判したことで、大きなトピックとして話題を占拠した。私は、この「審査員に不満を持つ」という行為は、直接的な意味でも、間接的な意味でも、あらゆる業界で増えていくのだろうと思っている。松本人志はこの一連の騒動に関して、「プロが見ている緊張感の中でエンターテイメントは向上していく。一般の人に向けてのお笑いばっかりやっていくと、絶対クオリティは下がっていく」と話していたが、私はこれとまったく同じことをサッカーに置き換えて常々考えている。お笑い芸人という括りは難しくなってきているが、SNSで「数」を獲得したお笑い芸人がマスメディアに出てくるようになってから、随分と日が経ったように思う。SNSが充実したことによって、良くも悪くも篩(ふるい)にかけられていない表現者が世の中に増殖していくことになる。“そのことを理解せず”、SNSで「数」を集めてマスメディア(テレビ出演)を狙ったお笑い芸人たちは、短い時間を経て消化されていったことだろうと思う。

 サッカーの人間がサッカーのメディアでサッカーの読者に向けてお笑いの話ばかりしてしまって申し訳ないが、私が言いたいことは一つ。「審査員は今現在一流の漫才ができるから」あの席に座っているのではなく、「一流の漫才(本物の質)を見てきたから」あの席に座っているのである。そこを履き違えてはいけない……と、ソーシャルメディアの恩恵に与ってアルゼンチンでM-1を観ることができた私は思うのだ(つまるところ、物事には必ず良い面と悪い面があると言いたいのだ)。

 さて、いよいよサッカーの話をしよう。何を隠そうサッカーにおける「審査員」とは、スタジアムに足を運ぶサポーターであり、クラブを見守るファンである。世界にある本物のサッカーは、歴史を着々と重ね、本物を見てきたサポーターやファンが常に厳しい目で「審査」をしている。それはアメリカのエンターテインメントだってなんだって、同じことだ。「本物?そんなもの誰が決めるんだ? 本物の価値は人それぞれでいい。求められる価値は時代の変化によって変わっているんだから!」という方向に話が発展してしまうのがSNS時代の面倒なところだが、少なくても、「良いものは良い、悪いものは悪い」そして「おもしろい、つまらない」と“心の底から”言える場所にしか、「本物の質」は存在していないだろう。「審査員」が正直でなくなった時、それはスポーツやエンターテインメントの発展が止まる時だ。もしこれを読んでいる人の中に「審査員」がいたら、正直に、感じるままに日本サッカーを評価して欲しいと思う。そこに理論は必要ない。

 これから、ますます「本物」がわからなくなる時代がやってくる。SNSで数を集めることは簡単になったが、そこにはからくりが隠されているかもしれない。“皆で結束をして”質を落としていくような世界にしてはならないのだ。「本物の質」を理解するには、本物に触れることが一番だ。心配しなくても、14歳の頃の私のように、本物に触れると「これが本物だ……」と不思議とわかるものである。外国に憧れて、憧れに突き動かされて海の外へ出ればいい。そこにはきっと、画面の中にはない「本物」がある。「憧れる」ということは、「越えにいくこと」だと私は思っている。自らの現在地を正しく把握し、そのうえで奴らを越えに行くことだ。

 『日本代表とMr.Children』を読み終えたあと、何年ぶりか『終わりなき旅』を聴く勇気が湧いてきた。後半打ち込む文字に熱が入ってしまったのは、この曲を聴いていたからなのかもしれない。「高ければ高い壁の方が 登った時気持ちいいもんな」と、Mr.Childrenは言った。確かに奴らの壁は高いけど、薄々気づいているはずだ。決して越えられない壁ではないことを。気付いているはずだ。


Photos: Getty Images

TAG

日本代表とMr.Children

Profile

河内 一馬

1992年生まれ、27歳。サッカー監督。アルゼンチン在住。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。サッカーを非科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者。サッカーカルチャーブランド『92 F.C.』ファウンダー。NPO法人 love.fútbol Japan理事。