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サッカージャーナリズムは最新戦術用語をどう扱うべきか?

2018.05.23

 少し前、英国のサッカー雑誌『ディーズ・フットボール・タイムス』に掲載され、『ガーディアン』紙に転載された記事で、サム・グリスワルドはイタリアのサッカー用語が持つドラマチックな深みについて述べている。「ロスト・イン・トランスレーション:イタリアのゲームが英国のそれと同じであることはない」と題されたその記事では、イタリア語の「レジスタ=regista」を例にとってこう考察している。この言葉は、英語の「プレーメイカー=playmaker」が持つ技術的、戦術的な意味内容をすべて含んでいるが、それにとどまらず、映画や演劇のレジスタ(監督/演出家)、すなわち役者(=他のプレーヤー)たちを統率し、タイミングや構図やカット割りや他のあらゆる効果を駆使して作品を作り上げる人物というニュアンスまでも言外に帯びている。それは英語では伝えようがない。グリスワルドの記事は、サッカー用語として使われるイタリア語の記号論的な奥行きについて1つの視点を提供している。しかし同時にイタリア人は、現代サッカーの複雑性を反映した新しい戦術用語をその中に取り込む上で困難を抱えてもいる。


戦術用語の生みの親、名記者ブレーラの葛藤

 「イタリアにおいて、戦術について語ることは罪深い道楽だと考えられている。年長の記者たちは、非現実的、いや空想的な世界をピッチ上に見ている気取った野郎だと言って、若い私を笑い者にしたものだ」

 イタリアにおけるスポーツジャーナリズムの父と呼ばれ、「カテナッチョ」「リベロ」「コントロピエーデ」(カウンターアタックを指す)など今の我われにとって欠くことのできない言葉を発明した名記者ジャンニ・ブレーラは、サッカーというゲームへの戦術的・分析的なアプローチを受け入れてもらうことの難しさについて語っている

 「まず私は、新たな用語を捻り出さなければならなかった。新しいボキャブラリー、そしてそれ以上に説得力のある批評的アプローチを生み出すのは、簡単なことではなかった」

 ここで言及されている、第二次大戦後のイタリアジャーナリズムを支配したスノッブな保守主義は、今日もSNSの中で飛び交っている皮肉めいたやり取りとその背景にある論争好きなメンタリティ、そしてサッカーを単純なゲームだと捉えたがる試合翌日の極端に誇張された議論の中に生き残っている。しかしながら、サッカーを理解するためのツールとしてより多くの概念や視点を求めている層も明らかに存在し、増え続けている。その多くは若い人々だ。

 ごく最近使われ始めた重要な戦術用語の大半には、イタリア語の訳語が存在しない。「ハーフスペース」については「メッゾ・スパツィ=mezzo spazi」という直訳語を充てている人々もいる。ドイツ語の「ゲーゲンプレッシング」には「リアグレッシオーネ=riaggressione」(訳注:日本語に直訳すると「再襲撃」)という訳語を充てて、通常のプレッシングに使われる「アグレッシオーネ=aggressione」(「襲撃」)と区別しようとする試みもある。しかしどれもイタリア語としては響きが悪い上に言外のニュアンスを想起させる力も持っていないため、一般的な議論の中にはなかなか入ってこない。そして、言葉が入ってこないということは、その背景にあるコンセプトも入ってこないということだ。


語彙をめぐる戦争――「頭」か「腹」か

 それどころか、サッカーを語る時にこうしたテクニカルな用語を多用する傾向を見下すためにしばしば使われる(ここまで出てきた単語以上に響きの悪い)言葉すら存在している。「コベルチャネーゼ=Covercianese」(コベルチャーノ語)というのがそれだ。コベルチャーノというのは、イタリアサッカー連盟のテクニカルセンターがあるフィレンツェ郊外の村の名前だ。ここに見られるテクニカルタームと一般的な語彙との摩擦は、より深いところにあるサッカーに対するアプローチの違いに繋がっている。「頭」で、つまり理屈で捉えるか、「腹」(あるいは「ハート」)つまり感情で捉えるかの違いだ。その2つの視点に引き裂かれたくないのならば、両方を1つに結びつけるアプローチを見出すべきだろう。

 『ウルティモ・ウオモ』も、サッカーとその戦術をいかに語るべきかというテーマに当初から取り組んできた。そして約1年前から「戦術用語辞典」と題したシリーズで、我われの一般的な語彙を使って用語とそのコンセプトを解説している。その中で、私たちにとって様々なニュアンスを想起させるいくつかの単語やコンセプトが、読者にとっては必ずしもそうでないことに気づかされた。例えば、私たちにとって「サリーダ・ラボルピアーナ」について語ることは、リカルド・ラボルペのメキシコ代表とペップ・グアルディオラを結びつける試みであり、その中にはこのメカニズムが内包するメリットとリスクも直接的に含まれていた。しかしその背景にある「歴史」やエピソードを知らない人々にとっては、単に「大きく開いたCB2人の間にセントラルMFが落ちる」というメカニズムを言い換えるための気取ったレトリック以上のものではなかった。「ハーフスペース」についての記事で、私たちは読者に対して縦に5分割したピッチを頭に浮かべることを求めたが、それはポジショナルプレーにおける、もっと言えば優位性を追求する上でのこのスペースの重要性を読者に伝えるという目的を達成するために必要だったからだ。

 当然ながら、読者の反応は割れている。やはり、研究と情熱は両立できないのだろうか? 私たちはそうは思わない。情熱こそが研究のエンジンであり、私たちの興味の対象となっている物事を語る上でより多くの言葉や概念を持つことは、より深い理解を助けてくれるに違いないからだ。イタリアのスポーツ新聞は、今もなお読者の「腹」(あるいは「ハート」)に訴える路線を堅持しているが、それでも使われるボキャブラリーはここ数年で大きく変化している。今後数年で、一部の読者の誤解を招きやすい用語について一貫性のある用法を確立し、サッカーを語るための枠組みをアップデートすることが必須だろう。あるチームが「幅を使って」プレーしているかどうか、「人に基準を置いたゾーン」で守っているのかそれとも「純粋なマンツーマン」で守っているのかは、意見の問題ではなく事実関係の問題だからだ。読者が間違った理解をするような伝え方をするべきではない。

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 しかし、本当の対立軸は「頭」と「腹」、理屈と感情ではない。広く共有されたコンセプトに基づいて明確に定義された用語と、漠然とした感覚に訴えるだけで定義のしようがない曖昧な用語の間にある。

 「イタリアでは、あり得ないほどの無頓着さであらゆる思いつきが書かれ語られている。サッカーについて言えば、書く技術には長けていても何も考えようとしない物書きたちのおかげで、我われは15年を失った」

 遠い昔、前回W杯出場を逃してから5年後の1963年にこう書いたのはブレーラだ。それから半世紀以上を経ても、イタリアはあまり変わっていないように見える。


■『ウルティモ・ウオモ』戦術用語辞典

Photo: Getty Images
Translation: Michio Katano

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