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Photo: Bongarts/Getty Images
The Judgment Day   誤審と言えばこの試合だろう。あのホアキンのセンタリングでなぜ笛が鳴ったのか?スペインでの大騒ぎとは対照的な、日本の中継での「沈黙」も忘れられない。審判だってミスをする。そんな当たり前のことタブーにしてもしょうがないではないか

2017.02.27 21:00

COLUMN

映画のボカシとサッカーのタブー

『フットボリスタ主義』選外集⑤ 2007年4月25日発売号掲載


 この間『ブラウン・バニー』(ビンセント・ギャロ監督)を見ていたら、一番肝心なところでモヤモヤと雲が出てきた。

 「雲?ぶっわっはっはっ」とサラマンカのある語学学校の教師に大笑いされていた奴だ。「日本じゃあ、雲が出るんだって知ってたか?」と周りにいた同僚を呼び止める。

 「ボカシ(gradación)」と言うべきところを、ボキャブラリの貧困さゆえに「雲(nube)」としたことで、難解な概念が逆に頭の中で鮮やかに視覚化されたのだろう。彼が生まれて初めて耳にする日本の検閲は、裸のシーンで突如湧き上がる白い雲としてイメージされ、そのコミカルさに吹き出してしまったのだ。

 が、私は笑わないで怒る。

 「馬鹿にすんなよ」だ。

 この映画はR-15指定である。中学生以下の観覧には適していない、と私も思う。だが、私のような45歳の大人にフィルターをかけ、何をボカし何を隠そうというのか。そのものズバリが見えたところで、別にショックで寝込んだりしないよ。

 そりゃあ、見たくない人もいるだろう。そういう人はこの映画を見に行かなければいいし、DVDのスイッチを切ればいいし、目をつぶればいい。

 年齢制限をし、「この映画には過度にエロチックなシーンがあり、神経過敏な人にはお薦めできません」などと断り書きを入れば、見たくない人が見る事故は回避できる。


 ――こう力説すると、何だかエッチなオヤジの欲求不満に聞こえるかもしれないが、私が求めるのは、ビンセント・ギャロ映画の“おしゃれな”クライマックスだけではなく、大御所ベルナルド・ベルトルッチの『ドリーマーズ』や、斬新なラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』、写実的なラリー・クラークの『ケン・パーク』、演出家パトリス・シェローの『インティマシー』などの“芸術的な部分(そうですよね?)”を包み隠さずちゃんと見せろ、ということなのだ。


■ジャッジに口を挟むのはタブーか?


 さて、ここからはサッカーの話だ。

 過日あるジャーナリストと話をしていて、日本のサッカー界にもタブーがあり、それを隠すためにボカシが入っていると聞いた。それは審判のジャッジに関することだという。

 曰く、テレビ局は微妙なプレーをスロー再生することを意図的に避けている、解説者やジャーナリストは際どいジャッジに言及しない、と。

 とはいえ、映画のボカシのように検閲を推進する機関がある訳でも刑法による罰則がある訳でもない。あくまで暗黙の了解というか紳士協定レベルらしい。

 このボカシは何を守っているのか?

 審判の権威だという。

 ご存知のように、スペインのテレビ局は疑惑の判定がなされたプレーを何度もしつこく繰り返して見せる。あれを見ればミスジャッジも一目瞭然。オフサイドの旗の揚げ間違い、ペナルティの吹き間違い、カードの出し間違いが、5分後には白日の下にさらされる。

 加えて、試合後にはサッカー番組が『モビオラ(Moviola=リプレイ)』などと名づけられた、珍プレーならぬ“問題ジャッジ集のコーナー”を設けて追及。最後は、全国ニュースとスポーツ紙がその映像を借りて駄目押しするという仕組みで、月曜の朝になれば週末の問題プレーについて全国民的な合意ができてしまう。

 ボカシで保護するどころか、メディアもジャーナリストもよってたかって審判の権威を侵しまくる、日本とは正反対の状況がそこにはある。


■ボカシを取る前に必要な覚悟


 で、隠す日本式と露出するスペイン式とどちらがいいのか?

 いずれもメリット、デメリットがあるのだが、私は最終的にはスペイン式の方が日本のサッカーのためになると思う。

 ボカシが取れ、審判批判が野放しになれば、審判の一時的な権威低下は避けられない。

 が、執拗なスロー再生で明らかになるのはミスジャッジばかりではない。ジャッジの正当性とともに、ビデオでも明らかにならない微妙過ぎるプレーの存在、それらを肉眼で一瞬のうちに裁かねばならない審判という仕事の過酷さも一目瞭然だ。

 ここで日本のメディアとジャーナリズムの質が問われる。

 ミスジャッジのみをあげつらって審判を叩き続けるのか、審判の上手下手とジャッジの良し悪しをも含んだより豊かな批評・レポートを行い、さらに一歩踏み込んで、審判の仕事の困難さを認め重要性を見直して、より実質的な権威を彼らに与えるのか。

 要は、後者の道を歩む覚悟が報道する側にあるのなら、タブーなんかなくしちゃえ、というのが私の考えだ。


 ただ、結論を急ぐ前に、来週発売号ではボカシなき国スペインの例を見ていただきたいと思う。映画の検閲廃止には手放しで賛成だが、サッカーの方は実は躊躇がない訳ではないのだ。

(文/木村浩嗣)



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著者・木村浩嗣が自らピックアップした「『フットボリスタ主義』選外集」、全6本を特別公開!

2月21日(火)21時公開「ナンパの道具としてのサッカー」
2月24日(金)21時公開「国歌を歌わない選手を許すべきか?」
2月25日(土)21時公開「代表拒否? てーへんだ、親分!」
2月26日(日)21時公開「サッカーライターは金持ちになれない」
2月28日(火)21時公開「“コエマン”と“ウードス”に見る、愛国的言葉遣い」

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