warae_syugi

2017.02.20 19:00

COLUMN

『フットボリスタ主義2 』珠玉の(?)選外集!

サッカーを笑え NO. 136

『フットボリスタ主義』は9年間の編集長時代に書いていた巻頭コラムだ。
サッカーに引っ掛けて政治、恋愛、マスコミ、文化、風俗など
テーマは雑多で300本以上。
今回は単行本2冊に再録できなかったものの中から、
特別に思い入れがある数本を紹介します。


恋愛、愛国、メディア、文化の違いを笑って怒った


 まずはこれ、「ナンパの道具としてのサッカー」(07年3月28日発売号)。以下、カッコ内はすべて抜粋引用。「サッカーはナンパに向かない―― これがスペインでの真実だ。女子大生には、特に受けが悪かった。『ラウール? 興味ない』ではなく、『サッカー? 嫌い!』と眉をひそめられる。“サッカーは知的スポーツだからインテリジェンスがない者にはわからない”が、スペイン男たち定番の陰口だが、女たちの言い分は真逆。サッカーは罵声、乱暴なプレー、非紳士的行為(ダイブとか抗議とか)、グラウンド内外の暴力が横行する粗野なスポーツだと思われていて、やる方も見る方も野蛮人だと考えられているフシがあった」

 恋愛は主要なテーマだった。なにせ1冊目の単行本のキャッチフレーズが「恋もサッカーも魅力は攻撃」なのだから。スペインで女性にいかにサッカーが嫌われているか、その背景にあるマチスモ(男性優位主義)や性差別、女子サッカーへの偏見などは今も執筆の闘志をかき立ててくれている。愛国も愛の一つだろう。


危機の時代のサッカーとメディア


 「国歌を歌わない選手を許すべきか?」(13年3月27日発売号)ではベンゼマの国歌斉唱拒否について「移民だってフランス人である。彼らにもフランス代表のユニフォームを着る資格がある、と。だが、彼らがラ・マルセイエーズを歌わないとしたらどうか。それも本人の思想・信条の自由として容認するべきだろうか。それとも、極右が主張するようにベンゼマは代表を去るべきだろうか」。今、移民問題に欧州が揺れている。サッカーは統合の道具なのか、それとも分裂の道具なのか?

 愛と並んでテーマとなったのがメディア。称賛より批判の方が多かった。例えば「代表拒否? てーへんだ、親分!」(09年4月28日発売号)では「我われマスコミは八五郎でいいのか? と。てーへんだ、てーへんだと大騒ぎして視聴者や読者にご注進に及び、『何事でぇハチ、落ち着つかねぇか』とたしなめられる。で、水を一口飲んだ後、息を切らして『カターニアの森本が代表拒否しました! 岡田親分のスタイルも気に食わないようです!』と言う。当然、親分は『何ぃ!』となる」と森本貴幸の“代表拒否”に大騒ぎするメディアを笑った(その号では森本選手本人に登場してもらった)。ろくに調べもせずナイーブなモラリストの立場で人を焚きつけるメディアのやり口はここ数年さらに酷くなってうんざりだ。

 「サッカーライターは金持ちになれない」(07年9月5日発売号)で指摘した原稿料が単価×分量の量り売りであるゆえに「肉体の限界」=「収入の限界」となっている仕組みと「この業界は、サッカーが好きだから、報道したいからという理由で、損得抜きで海外に飛んだり滞在する人たちの善意に支えられ、そして甘えているのだ」という認識は変わっていない。が、世の中が変わった。その後デフレが到来。金持ちどころか生活維持が難しくなっているのが現状だ。


国が違えばタブーも変わる


 日本とスペインの文化の違いも主要なテーマだった。
 「映画のボカシとサッカーのタブー」(07年4月25日発売号)はジャッジ批判がタブーとされる日本と真逆のスペインを比較した。「で、隠す日本式と露出するスペイン式とどちらがいいのか? 私は最終的にはスペイン式の方が日本のサッカーのためになると思う。ボカシが取れ、審判批判が野放しになれば、審判の一時的な権威低下は避けられない。が、執拗なスロー再生で明らかになるのはミスジャッジばかりではない。ジャッジの正当性とともに、ビデオでも明らかにならない微妙過ぎるプレーの存在、それらを肉眼で一瞬のうちに裁かねばならない審判という仕事の過酷さも一目瞭然だ」。果たして、FCWC決勝でセルヒオ・ラモスを退場させる勇気がなかった審判を日本メディアは十分に批判しただろうか?(ちなみにスペインでは酷評)。

 「“コエマン”と“ウードス”に見る、愛国的言葉遣い」(08年2月6日発売号)では現地表記にこだわる日本とクーマンをコエマンと平気で呼ぶスペインを比較した。「私はスペイン人たちに抗議したい。誰も教えてくれなかったじゃないか。『あれはファン・ハールと読むんだよ』と。誰もたしなめてくれなかったじゃないか。『オランダ語をスペイン語読みするのは失礼なんだよ』と。誰も啓蒙してくれなかったじゃないか。『“民主的”で“国際的”とは、その人の出身国の呼び方を尊重することなんだよ』と。私たちが日本で、ロナルドかロナウドかホナウドか、ソルスキアかスールシャールか、グーリッドかフリットかと激論しウンウン唸っている間に、あなたたちはまだコエマンなんて!」 。もっとも、私はファン・ハールをバンガルと呼び恥をかいたクチだが、それでもやっぱりこの国を離れられない。

(文/木村浩嗣)



『フットボリスタ主義2』の紹介ページはこちら
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本コラムで紹介した「選外集」6本をWEBサイトで特別公開します!

2月21日(火)21時公開「ナンパの道具としてのサッカー」
2月24日(金)21時公開「国歌を歌わない選手を許すべきか?」
2月25日(土)21時公開「代表拒否? てーへんだ、親分!」
2月26日(日)21時公開「サッカーライターは金持ちになれない」
2月27日(月)21時公開「映画のボカシとサッカーのタブー」
2月28日(火)21時公開「“コエマン”と“ウードス”に見る、愛国的言葉遣い」

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